聞き取り調査「水尾の榛の木汁染め」


水尾に伝わる「榛の木汁染め」について調べるために、水尾の方にお話をうかがうことにしました。
お話をしてくださったのは、水尾のおばあちゃんです。
榛の木汁染めの染め方や、榛の木汁染めの由来について話していただきました。
榛の木汁染めが、とても手間のかかる草木染めだということや、水尾の人が、榛の木で染めた
三幅の赤前垂れをとても大切にしてきたことを話していただきました。
話はそれだけではなく、水尾の昔の暮らしの様子についてもくわしく話していただきました。
初めて知ったことが多く、おどろいたこともたくさんありました。


『榛の木汁染め』の聞き取り調査

水尾では、三幅前垂れ(みはばまえだれ)を大切にしてきた。
・三幅前垂れは、榛(はん)の木と桃で染める草木染め。
・水尾の人が、愛宕さんで樒(しきみ)を売る時に、女官の緋袴(ひばかま)のかわりに使っていた。
・昔は、花売り場までが水尾の土地だった。昔は、水尾では現金収入の手段が少なく、樒売りは大切な収入源
 だった。男の人も、樒売りに行っていた。
村を組で半分に分け、一日おきに売りに行っていた。
・月の23日は愛宕さんの命日で、赤前掛けで行った。この日はお参りが多いので、どちらの組が売りに行
 くかでけんかになることもあったそうな。そこで、23日は、村全体が売りに行ける日になった。
月の23日とお祭の日は、はんてん、お歯黒、三幅前垂れで行った。三幅前垂れは大切にしていた。
 行きも帰りも荷物の中に入れて行った。言葉使いは、いつもていねいだった。

榛の木汁染めについて
榛の木汁染めは、30年ほど前に、婦人会でやったことがある。
芽を吹いている木は、切らない。秋に切る。冬に乾かす。そして、春にたき出す。
鉄のなべは使わない。金気(かなけ)が出る。羽釜(はがま)を使っていた。
 たき出した汁をすくうのにも、鉄の物は使わない。木のしゃくを使った。
たき出した汁を何日間か寝かす。一斗カンほどの瓶、陶器の瓶に入れて冷ます。
そこへ、さかづき一杯の石灰を入れる。生きた石灰はだめ。水と合わさって熱を持つ。あわをふく。死ん
 だ石灰、風邪をひいた石灰でないとだめ。木灰ではない。家々で、「これでないとだめ。」と言って、箱
 に入れてとっていた。

石灰を入れると、底の方に沈む。沈殿している物を溶かすために、毎日わらで混ぜた。かき混ぜるのは、
 わらすべ。わらすべに色がつくと、「布をつけてもよい。」と言った。それまでは、色が薄いのだが、わ
 らすべに色がつくころには濃くなる。

三幅の縫い目には、ひもや糸をつけていた。染めむらが出ないように、染めるときに強く絞らない。干す
 と染料が下がるので、何度か上下を反対に干すと、きれいに染まる。干すために三幅の縫い目には、ひも
 や糸をつけていた。

染める前には、木綿を洗っていた。木綿を米のとぎ汁に入れてたく。その後、叩いて叩いてのり気を落とし
 て、ゆすいで干す。

榛の木は、神明にあった木を使っていた。松の皮をむく道具、ソウマを使って榛の木の皮をむいていた。
 桃の木の皮は厚鎌でむいていた。

榛の木は、うどんほどの太さの花が咲き、先に、小さな実がつく。
榛の木は、昔は山の境に松などと植えた。今は、ひのきが多い。
三幅前垂れは、一年に一度洗い、その後、染め直す。洗い方は、たき出し。
れんげが咲くころに染めていた。
以前、婦人会で染めたときは、東の山に借りに行った。

質問についての答え

榛の木汁染めは、いつくらいまでやっていたのか。
戦後も婦人会で行っていた。三幅前垂れは、水尾のほとんどの家庭にある。
何度も染め直すので、茶褐色になっている。猪の色みたいになっている。

前垂れにしか染めなかったのか。
前垂れだけ。
大丸の特産物展のときにも、前垂れで売りに行った。東京にも売りに行ったこともある。
そのときに、幟をつくった。

その時の幟は今もあるのか。
・加工組合の会長さんの家にある。

染めるのは外で染めるのか。
三幅をぬって、家々で染めていた。
手間がかかるので、染めてもらうときは、女性の一人前の手間をとった。
 例えば、田植えを1日手伝うとか。


榛の木以外でも染めたのか。
榛の木だけ。日々の仕事に追われていて、染めはできない。
学校では榛の木以外の色々な物で染めている。いい勉強をしてるんやね。

三幅前垂れは、年齢に関係なくしめるのか。

年齢に関係なくしめていた。
閉めることの意味は、おしゃれではない。風俗かな。三幅前垂れにうで抜き、きゃはん、ひざまでの
 もんぺ、これが、水尾女の服装だった。

お盆の買出しは、この格好で亀岡まで行った。汽車がなかったので、往復歩いて行った。
昔は、亀岡から牛車で、醤油樽を1本運ぶ。これが、1日の仕事だった。1樽で、水尾の1日分。
・昔の水尾には100軒ほどあった。火事のときにうんと減った。


昔は、宿場町だったと聞いたが。
さば街道だった。魚に谷水をかけながら歩いたらしい。
現金収入がなく、ゆず栽培もなかった。材木をベタで運び、今の保津峡の駅のところで、いかだを組んで
 いた。

東の道は清滝に行っていた。米買い道。
びわやマツタケなどは、米買い道を通って北野の八百屋に運んでいた。マツタケは夜中の2時ごろから山
 に入った。人を雇って運んだこともある。

終戦時に、水尾には自転車が1台だけあった。
学校が火事になった時、一郎さんの家にオート三輪が一台だけあった。前の保津峡の駅、今のトロッコの
 保津峡の駅からの帰り道、荷台に乗せてもらったとき、うこうの浜のがけが怖かったことを覚えている。

今の人は、幸せだ。


聞き取りを終えて
お話をうかがって、私達の知らない水尾を、いろいろ知ることができました。
昔の水尾には100軒も家があったなんてすごく驚きました。火事になるなんて
もったいなかったなぁと思いました。
榛の木汁染めの歴史も、いろいろ話していただき、知ることができてよかったです。


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