校区の歴史
校区の史跡・文化財


室町幕府(花御所)跡

今出川通室町の交差点を南側から北方面の望んだところ。北の方に伸びている道路は室町とおりです。正面に見える理容店の角に、小さな石碑が立っています。  この石碑には、「従是東北 足利将軍室町第趾」と刻まれています。この地点より東北は室町幕府・足利将軍の邸宅跡であるという意味です。室町幕府の敷地は、東西を、烏丸通と室町通、南北を今出川通と上立売通の囲まれた長方形の敷地です。現在では、この周辺の町名に当時のなごりが残されています。  石碑の立っている所から、室町通の北の方を望んでいます。この通りの右側(東側)が
室町幕府の跡地になります。この地点から、約300mほど北に行った右側に、室町小学校の正門が室町通に面してあります。

石ぶみの問わず語り(作者不詳)

石碑「従是東北足利将軍室町第趾」

 今出川通(北小路)から上立売(柳原)まで、烏丸通から室町の間の区域に、足利義満(三代)が造営した室町第のあった遺趾である。
 義満がこの地にあった光明院の御所の跡地を賜り、さらに菊亭公直の第地(南側)をも併せて、永和三年(1377)に造営に着手し、永徳元年(1381)四月に落慶供養の式をあげているので、工期は前後五ヵ年を要した。荘厳な寝殿造りのたたずまいの建築群のある広大な敷地には賀茂川の水を引き入れ、一町余りの池や石組みなど王朝風の庭には四季の花を数多く植えたところから、時の人々は「花の御所」といったという。
 北小路室町にあったのではじめ北小路亭などと呼ばれていたが、のち「室町殿」に一定した。
 この名称が幕府を、さらには足利将軍の通称のようになった。
尊氏が幕府を開いた三条坊門の第(御池柳馬場附近)から移って、ここで政務をみた。
室町第の造営は、南北朝内乱の統一の結果、幕府としての組織が確立し、新時代の到来を天下に誇示する意味をもっていた。三管・四職以下の諸大名や武家の屋敷もその附近に建てられ、また、当時の皇居たる東洞院土御門内裏にも至近の距離にあるので公家・貴族の邸宅も多く集まり、このため京都の町も北の方へ膨張するようになった。
 さらに、義満は殿舎の東に隣接して広大な規模で相国寺を建立し(1392),晩年には北山に山荘をかまえ(北山殿)、その権威の象徴のように金閣(舎利殿)を営み、ここに花咲いた文化を北山文化と称されている。
 義満はこの室町殿を子の義持に譲り、1398年からは、この北山で政治をとった。
六代義教の代永亨三年(1431)室町第は増築され、上立売を超えて広がったという.
 その後、応仁文明の乱には、天皇・上皇が乱を避けてこの第を假皇居とされ、寝殿が清涼殿がわりに使われたが、やがて文明八年(1476)近くの土倉が放火され類焼してしまった。今はただ往時をしのぶ町名だけが残っているに過ぎない。
 この近くの町名に遺趾を尋ねると、先ず今立っている処、室町今出川の南の辻を総門の辻といい、今出川に南に面して室町第の総門があった。西の方に掘出し町の町名から、室町第に堀がめぐらされ濠水が張られていたと「坊目誌」は伝えている。
室町通のさらに北の築山町は池水に臨んで泉殿があった。その北の裏築地町は室町第の裏面にあたり、裏辻町ともいった。
 一説には四足門があったという。また、一色義直の館があり、裏築地館ともいった。また、その東、烏丸通の御所八幡町は室町第の鎮守の八幡宮のあったところとみられる。
 今立っている処の南の北小路室町の西側は義政造営の北小路殿という別殿(日野富子)のあとで、文明八年には仮皇居にもなった。衣棚通今出川上る畠山町の東側は、管領畠山持国など数代の第地で、邸内に畠山ノ井(銀竜水)があった。(町内中ほどの道路わきにあたる) なお、室町頭町の民家には、金竜水という井戸あり、京の名水の一つといわれるが裏築地町に近く、ゆかりがあろうと思われる。
 畠山町の西側は、伊勢貞宗の第があり、文明七年に犬追物を催して将軍が渡御したという記録がある。
 堀川上立売下西にある山名町は管領山名宗全の第趾で、小川通上立売上る、射場町は管領細川氏代々の第で、近くに笠懸の射場と馬場があったところから町名になり、また、新町鞍馬口の清蔵口は犬追物を稽古した馬場があった。犬追物は当時、弓馬の二道を兼ねるので盛んに武士はこの修行にはげんだという。
 そのほか、応仁の乱の発祥の地といわれる御霊の森は、相国寺の北、上御霊神社にあり、足利幕府末期の将軍義輝・義昭の第(勘解由小路第)あとは、室町下立売下るに、そして今出川大宮東入るの西陣織会館の前に西陣織を伝える大石碑がある。