生活に便利さ・快適さを求めすぎない
江戸・明治のころと言わないまでも30年前と比べても,現代は随分便利で快適な暮らしをしていると言えましょう。今どき,手洗いで洗濯をしている人は稀でしょうし,部屋の掃除に箒を手にする人は少ないでしょう。車による移動,テレビ・インターネットによる情報入手,携帯電話による連絡,エアコンによる冷暖房等,どれを取っても,その急速な広がりは目を見張るばかりです。
便利で快適な生活は,科学文明の生み出したものであり,私たちはそれにどっぷり漬かって生きているわけですが,いいことばかりではありません。自動車が普及したとき,人間は歩く能力を低下させました。冷暖房に慣れた体は温度調節機能を劣化させたといわれています。一つ便利さ・快適さを手に入れるたび,人間は本来持っていた身体能力を低下させてきたようです。
近年,人とのかかわりを煩わしいと考える傾向を反映してか,核家族化が静かに進行しています。三世代が一緒に暮らすより夫婦,親子だけの方が気楽かも知れませんが,いざ子育てをする段になって相談相手や助けてくれる人がなく,どうしていいか分からず悩む母親が増えています。近所づきあいを敬遠するため,ちょっと近所や保護者間で相談すれば何でもないことでも,役所や学校へ怒鳴り込むという事象もよく見聞きするところです。気楽さを求めることが回りまわれば自分に帰ってくるということに,私たちはもう気づいてもいいのではないでしょうか?
つまり,便利さや快適さの追求は,身体能力のみならず,人のことを慮ったり,我慢・妥協したり,みんなで力を合わせて仕事を進めるといった社会生活を送る上で必要な能力 についても低下させてきています。したいこと,やりたいことが,容易に実現可能になったため,人間は思ったとおりにならないと,何に対しても我慢がならず,傲慢になってきたように感じます。
私たちは長い間,村とか町内会といった共同体に属し,それに守られつつ,その維持,発展をめざしてきました。そして共同体の中に連綿と継承されてきたものの考え方−何々を大切にする,規範意識―何々はしてはいけない,などを大切にしてきました。これらは,文明に対して文化と呼んでいいでしょう。新年を祝う(けじめ・季節感),墓参りをする(先祖を敬う),礼儀作法(日本らしさ),共同で作業をする(助け合い・共同意識)等は,面倒で不便なものかも知れませんが,そうすることが個々にとって気持ちがいいし,まわりからも評価されることでもあったのだと思うのです。
これは,先述の便利さとは対極にあるものかも知れません。そこには,損得とか能率とかといった発想は希薄だと思います。生活に便利さを求めるのに汲々とするのでなく,すなわち文明を享受するだけでなく,もっと文化を大切にした暮らしをしていくべきと考えるのですが,いかがでしょう。
昨年の地域教育フォーラムで,上甲 晃氏(志ネットワーク代表)が記念講演のなかで,人を育てることにかかわって「不便,不自由,不親切」に触れられましたが,これらを乗り越えてこそ感動もあり,人は新しい能力を身に付けていくのだと思うのです。子育ても同じです。あまり便利で快適な環境を与えると,思いやりのある,たくましい子どもには育たないのではないでしょうか。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がありますが,生活に便利さや快適さを求めるのはほどほどにして,大人も子どもも,お互いもっと汗を流して行こうではありませんか。
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