> 21世紀の『理科』を考える京都市民会議>第8回会議要録
| 「21世紀の『理科』を考える京都市民会議」 |
1.開催日時: 平成15年12月15日(月)午後2時〜4時30分
2.場 所: 京都市青少年科学センター 図書室
3.出席委員: 今福 道夫 委員(副座長),瀬戸口 烈司 委員, 山田秀司 委員,堀場 厚委員, 廣瀬 佳治委員,
光井 正人委員,佐藤 愛子 委員, 宇野 里枝 委員,下岡 多佳子 委員, 河野 文彬 委員,
阿古目 良子 委員, 白須 正 委員, 向井 宣夫 委員, 山本 壯太 特別専門員,(順不同)
教育委員会:
4.議事次第
(1)開会
(2)第7回会議の討議内容についての報告
(3)「中間報告(案)」について
(全体会議議事内容)
(1)第7回 会議録,第1回分科会 会議録 : 席上配布
(2) 「京都理科市民会議ニュース 第6号」 : 席上配布
(3)市長の諮問機関として,中間報告を出すことを前提に(案)について論議。
※ 下記意見に基づき,今回の会議において「中間報告(案)」が論議されました。
| [理科市民会議で提案された主な意見](再録) | |
| ここでは,全ての意見を掲載することができないため,主として今後のあり方を検討する上で重要な意見を箇条書きにしました。なかでも,京都の恵まれた豊かな自然をはじめ,有識者・学者,大学・研究機関所等,他都市にはない好条件を十二分に生かす工夫が重要であるとの意見が多く出されました。 | |
| (1)理科・科学離れについて | |
○ |
現在は,理科離れ・科学離れといわれているが,何事に対しても興味・関心,あるいはそれを持続する力がない「学び離れ」の状態ではないか。学習全般に興味を失いつつある実態を踏まえて,理科離れについても論議すべきである。 |
○ |
生活実態が教科学習の内容と異なるものになり,理科は,経験を伴わない単なる知識の集約に過ぎない状況が生まれている。ボタン一つで操作できる便利な生活は,科学分野のブラックボックス化を促し,理科に興味を持てない子を作っているのではないか。 |
○ |
科学技術の分野での進歩,発達があまりにも便利な生活を生み出し,学校で学習した内容が実生活で生かされる場がないため,不要の学問だと思われているのではないか。理科離れと単純化せず,家庭生活・社会現象として捉えるべきだ。 |
○ |
実験や観察を通した実体験の積み重ねが必要であり,そのためには,親子の共通体験の重視,周囲の環境に応じた教育のあり方を考えるべきである。 |
| (2)理科好きな子どもの育成について | |
○ |
教育が知識の押し付けになってしまい,子どもの一人一人の興味・関心の高まりにつながっていないのではないか。むしろ,理科は驚きや疑問,感動を生みやすい教科であり,その特性を生かして,学ぶということに興味・関心を持たせることができるのではないか。理科好きな子どもは学び好きの子ではないだろうか。 |
○ |
科学センターをはじめ,各種の学びの場を活用した体験が重要であるが,子どもの体験だけでは知りえない知識を適当な機会に,適当な助言者から与えることができる環境の整備も必要である。 |
| (3)理科好きな子どもが育つ環境整備のあり方について | |
○ |
理科好きな子どもが育つ環境としては,子どもが利用できる資料の整備された施設(学校,図書館,博物館,コンピュータ等)の所在や,それを教示してくれる指導者が必要である。また,知識だけでなく原理や仕組みを知るための具体的な体験(実験,観察,観測等)とその技術的な立場からの指導者も必要である。こうした施設・設備や指導者のネットワ−クが子どもや家庭の身近にあればよい。 |
○ |
理科好きの原点は,子どもが不思議だなと思って自発的に取り組む環境があるかどうかによる。また,子どもが興味・関心を引く施設・設備の整備も必要であるが,日常生活の中で子どもが示す興味・関心を教師や親がどう誘導し,発展させるかも,非常に大事ではないか。 |
○ |
科学センターの展示は,理科好きな子どもの育成を図るにあたって,好奇心を起こさせる工夫や,現在の科学技術の進展をわかりやすく紹介する工夫をするべきである。また,子ども自らが課題を見つけ,原理・原則を発見し,それを理解する機会を提供できる施設として,必要に応じた支援ができる人的システムを構築すべきである。 |
| (4)学校・教師の役割について | |
| ○ | 視聴覚教材だけに頼らない,人間が本来持つ五感を活用した体験をさせる授業の工夫が必要ではないか。模範実験だけでなく,子ども自身で実験や観察を進めることのできる機会を設けることや,夏休みなど長期休業期間を活用した課題研究のひとつとして,自然観察を取り入れることも考えるべきではないか。 |
| ○ | 自然観察等を通じて,生命の尊厳を学ぶことや太陽や月の運行などの自然法則を発達段階に応じて理解させる工夫が必要であり,また,興味・関心を引かせる教材の準備も大事ではないか。バーチャルな世界が実相ではないこと,コンピュータ等を活用して得たインターネット等の情報がすべてではなく,必ずしも真実を伝えるものではないということも,きちんと教えるべきである。 |
| ○ | 興味・関心を子どもたちから引き出すのが教育の原理であり,教科の教え方の巧拙より,教師の情熱,教師自身の人格の陶冶を通じて,教育のあり方を考えるべきである。たまたま優れた教師に出会ったことで,自らの進路を選んで,成功した例は枚挙にいとまがない。 |
| (5)家庭・PTA・地域の役割について | |
| ○ | 子どもが何かを知りたがっているときや不思議に思っているときに周囲の大人が即座に答えてしまうと,それは単なる知識になってしまい,探究心や好奇心を育てることにはつながらない。子ども自身がもっとその内容を知りたいと思うように,上手に誘導し,質問するほうが,子どもは一生懸命になる。PTAや地域主催の自然観察やいろいろの体験にも,できるだけ親子の共同学習を心がけ,答えるのではなく,引き出す役割に参加してほしい。特に,家庭・地域とは別の視点を持った社会人の学習への参加は大きな意味を持っている。 |
| ○ | 今の子どもは,大人が子どもの時に不思議だなと思ったことに出会っても,特別の感慨を持たないようになってきている。そこで,父親や母親が日常の中で起こる不思議を子どもとともに追体験し,それを通じて自然との付き合い方を伝えたり,野外学習の効果を高める工夫をする必要がある。親自身の意識改革も重要な課題である。 |
| ○ | 人間も動物の一種であり,自然界の他の生物やその生産物を食べないと生きていけない宿命にあることや,動物でも植物でも一度失った命は二度と戻ることはないという事実を,家庭での食生活などの日常生活の中で学ばせ,生命の尊厳や自然界のモノとモノのつながりを理解させる必要があるのではないか。 |
| (6)大学・企業の役割について | |
| ○ | 大学の図書館や資料室を積極的に公開してもらい,それらを利用して子どもの理科・科学に関する興味・関心を高める工夫を進めるべきではないか。 |
| ○ | 大学関係者やそこで学ぶ大学生,企業人,ボランティア等が学校へ出向き,授業の支援などをすることによって,教育活動を活性化させている学校がある。大学や企業は,「青少年のための科学の祭典」等の単発的な事業への寄与だけでなく,学校教育の充実に向けて,例えば,継続的なメセナを実施するなど積極的な関心を持つべきではないか。 |
| ○ | 京都には,伝統産業で培われた技術を生かした企業が数多くあるが,中には,京都の大学や研究機関との有機的な協力関係によって飛躍的に発展した企業もある。これは,産学公が一体となった取組の結果である。京都市で産学公が一体となって設立したものに「高度技術研究所」や「桂イノベーションパーク」がある。理科・科学好きの子どもの育成にも,子どもから大人までを対象とする,こうした産学公の連携がますます必要になってくるのではないか。 |
| ○ | 子どもが不思議だなと思ったことをすぐに教えてしまっては,その場限りの知識になってしまい次につながらない。そこで,周囲の大人や親,教師などが,子どもとともに考える場として,市内にたくさんある博物館や研究所,大学,企業,また有識者や学者のネットワ−クを有効に活用すべきである。そのためには,それらの施設や人脈などを総合的に紹介するシステムを創るべきではないか。 |
| (7)「京都の総合力」活用のあり方について | |
| ○ | 子どもは体験を通して物事を学んでいくので,できるだけ多くの体験ができる教育環境を整備していくことが必要である。科学センターには,その機能の充実を図ってもらいたい。また,科学センターだけでなく,博物館等の施設においても,現物に接する教育の大切さを学校や家庭などに十分伝えるように関係者の指導や協力をしてもらいたい。 |
| ○ | 文部科学省は,理科・科学推進教育の一環として,スーパー・サイエンス・ハイスクールなどの指定を行っているが,平成14年度に指定された全国26校のうちに京都市では,市立堀川高校を含む3校がある。また,全国で9校しか指定されなかった「次代の人材育成事業『目指せスペシャリスト』」に市立洛陽工業高校が選ばれているほか,「理科大好きスクール」には市立小学校3校,中学校2校が選ばれている。これらの学校での理科教育にかかわる研究成果を,全市に波及させる工夫をするべきである。 |
| ○ | 人間は,子どもに限らず,生涯学び続けるものである。だから,「理科好きな子どもの育成」は「生涯学習」の一環としてとらえるべきである。 |