本校周辺の地図と、太秦の歴史を紹介します。
周辺地図




太秦の歴史

 京都市右京区のほぼ中心にある古代からの地名で嵯峨の東端に位置する。地名は渡来人の秦(はた)氏の本拠地だったことによる。「日本書紀」によると、5世紀後半の雄略天皇のとき、秦酒公(さけのきみ)は絹を朝廷にうずたかくつんで天皇に献じ、豆麻佐(うずまさ)の姓をたまわったという。のちにこれに太秦の文字をあてたが、「太」は「大」と同じで、秦氏の本家を意味した。
 秦氏は、5世紀前半ごろ朝鮮半島からやってきた。古代最大の渡来氏族で、一族は、日本全国に分散し、すぐれた土木技術で各地を開発した。6世紀半ばの秦氏の戸数は、7053戸で(「日本書紀」)、山城の国にはとくに多かった。京都で後期古墳群を代表する嵯峨の古墳群の被葬者も秦氏と推定される。そのうち太秦にある前方後円墳の天塚古墳や蛇塚古墳は国に史跡にも指定されており、その大きな勢力を今に伝えている。
 平安京遷都も秦氏の財力におうところが多かったといわれている。秦氏の氏寺の広隆寺は太秦蜂岡町にあり国宝第1号の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で知られる。秦氏はまた機(はた)織りを得意としたとつたえられ、広隆寺東方の木島(このしま)神社は、通称、蚕の社(かいこのやしろ)といい、養蚕と織物の神である。