叡山電車の歴史

この叡山電車のすばらしい歴史をこれからも守り続けていきます。

明治21年
 昔、叡電は琵琶湖疎水を利用して日本で初めて水力発電により電気を供給した京都電燈株式会社という会社の電鉄部門から始まりました。この会社は明治21年4月6日にできました。日本で4番目にできた電灯会社でした。
大正14年
 それからしばらくして大正14年に叡山平担線出町柳〜八瀬間(5,6km)が営業を開始しました。9月27日のことでした。
 開業当初「八瀬遊園」は「八瀬」といいました。
「八瀬」を「八瀬比叡山口」と名を変えたのは2002年のことでした。

昭和3年
 鞍馬線は昭和3年12月1日、鞍馬電気鉄道会社として、山端(やまばな)〜鞍馬間(8,8km)で営業を開始しました。当時、鞍馬線は別会社で「宝ヶ池」を「山端」といいました。「山端」を「宝ヶ池」と名を変えたのは昭和29年のことでした。
昭和16年
 昭和16年配電統制令が敷かれ発送電部門の出資命令を受け、京都電燈は50余年の歴史に幕を下ろしました。
昭和17年
 その翌年の昭和17年、残った電鉄部門を中心として京福電気鉄道株式会社ができました。
昭和19年
 昭和19年、叡山本線「山端〜八瀬間」、鞍馬線「山端〜市原間」が資材供出のため単線化されました。戦後の複線化工事は昭和26年に「山端〜八瀬間、昭和33年に「宝ヶ池〜岩倉間」が完成しました。

 それから宝ヶ池に競輪場があって、開催日には元田中を経由して京都市電が宝ヶ池まで乗り入れをしていたときがありました。昭和24年〜30年のことです。市電は東山線を最後に昭和53年全廃しました。
昭和53年
 昭和53年11月ポール集電からパンタグラフ集電に切り変えました。日本で最後のポール集電でした。
昭和58年
 昭和58年12月1日にはプログラム式自動列車運行装置(PTC)を設置し、修学院駅司令所にて一括制御するようになりました。
昭和61年
 しばらくして、京福電鉄から分離し叡電が誕生しました。昭和61年4月1日でした。
昭和62年
 昭和62,63年に自動列車停止装置(ATS)を設置しワンマン運転が始まりました。
平成元年
 そして、平成元年10月、京阪電鉄鴨東線(出町柳〜三条間)が開通しました。開通直前には「京都精華大前」もできました。実は、鴨東線は大正13年にはすでに計画された路線でした。しかし、戦争や情勢によってなかなか建設できませんでした。
平成2年
 平成2年には「岩倉〜二軒茶屋間」が複線化しました。
平成6年
 平成6年11月27日デナ21形(21,22号)のサヨナラ運転をしました。この車両は鞍馬線ができた時に誕生した車両で600年以上も現役で走り続けました。この勇士をたたえて今では鞍馬駅に先頭部を保存してます。
平成9年
 そして、平成9年、全く新しいコンセプトをもとに誕生したのが
パノラミック電車900系「きらら」でした。
この車両は平成10年にローレル賞をいただきました。
平成13年
 そして、叡山本線は平成13年9月27日で75周年をむかえました。

歴史で駅の場所などが分からなかった場合は、下記の路線図を参考にしてください。

叡山電車の路線図