我が校の歴史
- 1729年(享帆14年) 京都の町人を集め寺子屋教育(時習舎、明倫舎、修正舎)が始まる
- 明治2年 小川小学校と東泉小学校が創立される。小川小学校は明治2年、小川通下立売上る勘兵衛町に設けら れて開校する。 校下は第十八組といわれた二十二ヶ町(北は下長者町通、東は新町通、西は堀川通)を 一学区とする。明治5年区名を第二十区と改める。また、校名を小川小学校と改める。一方、東泉小学校、 は明治2年、出水通烏丸西入る地で開校する。校下は第十九組といわれた二十一ヶ町(北は下長者町通 南は丸太町通、東は烏丸通、西は新町通)を一学区とする。明治五年、区名を第二十一区と改める。明治 九年室町通椹木町下る大門町に移転し、校名を興文小学校とする。
- 明治9年 小川小学校は現在地、三十九坪(約129u)を買収し、明治15年6月に校舎を移転して校名を大路小学 校とする。
- 明治19年 大路小学校は校地170坪(約561u)を買収して拡張する。
- 明治20年 学制改革により大路尋常小学校、興文尋常小学校と改められる。
- 明治25年 全市学区変更により、第二十,第二十一の両区併合して上京第十六区大路・興文の両校も合併して、大 路小学校に移る。その後、滋野尋常小学校として開校する。校地が、平安朝初期の硯学、滋野貞主祉であ ったので、校名を「滋野」と名付ける。これが滋野尋常小学校の始まり。
- 明治37年 校地224坪(約739u)を拡張、明治40年に校地234坪(772u)を拡張する。
- 大正6年 創立50周年記念事業として校地465坪(約1636u)を譲り受けて拡張し、校舎も増改築する。(全敷地 面積約1800坪となる。)
- 昭和2年〜4年 校舎の根本的な増改築を行い、昭和4年に当時として珍しい鉄筋コンクリート建講堂兼雨天体操場(旧 講堂)ができる。
- 昭和9年 室戸台風のため、講堂及び一部の教室を除いて校舎の大部分に大きな、被害を受ける。校舎の更に根本
的な復興をはかることになる。
- 昭和13年 鉄筋コンクリート建地上三階、一部地下一階の近代式建築工事が始まり、校舎が完成する。これが現在 の校舎である。
- 昭和16年 全国の小学校が国民学校となり、滋野国民学校と改める。
- 昭和20年 戦争が終わり、校名も再び滋野小学校となる。
- 昭和22年 学制改革により義務教育が9ヶ年となって、新制中学校ができる。はじめ待賢小学校が併立される。
- 昭和23年 統廃合で待賢中学校は廃校となる。昭和二十三年四月十七日に、滋野小学校の校舎を転用して滋野中 学校が創設される。元滋野学区、梅屋学区、聚楽学区をもって通学区となる。
- 昭和30年 現在の養護育成学級設置。
- 昭和40年 生徒減により木造校舎を撤去し、あと地を運動場にする。以降生徒数は減少する。
- 昭和48年 バレー部春季大会優勝、野球部夏季大会準優勝、陸上部秋季大会優勝。
- 昭和53年 騒音対策のため教室にクーラー設置。
- 昭和56年 講堂兼体育館改築のため、木造本館及び旧講堂を撤去し、滋野の象徴であった大銀杏も大修抜式後伐 採される。
- 昭和57年 講堂兼体育館が竣工し、このとき校舎の一階図書室を内装整備して、ここにすべての木造校舎はなくなる
- 平成5年 コンピュータ室設置。
- 平成6年 1,2,3階廊下床張り替え工事完成。
- 平成10年 1階トイレ改修工事完成。
生徒数の推移(過去50年間)
年 度
|
学級数
|
生 徒 数
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昭和23年
|
17
|
918
|
昭和24年
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26
|
1279
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昭和30年
|
22
|
1157
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昭和40年
|
18
|
708
|
昭和60年
|
10
|
353
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昭和63年
|
10
|
333
|
平成 2年
|
10
|
294
|
平成 5年
|
9
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209
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平成 8年
|
7
|
171
|
平成10年
|
7
|
147
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