明治以降の沖縄
明治以降の沖縄
(1) 琉球処分
1866年6月、清国から冊封使が渡来、尚泰が琉球国中山王に封ぜられ
た時、これが最後の冊封使であり、尚泰王が最後の琉球王であることを予想
したものはなかった。しかし尚泰王冊封の翌年には大政奉還なり、翌年には
明治維新政府が成立して明治と改元され、明治4年には廃藩置県となる。沖
縄県の場合、明治5年、琉球国から琉球藩となり、明治12年沖縄県となっ
たが、この一連明治新政府の処置を“琉球処分”という。廃藩置県後、明治
政府は、台湾で発生した宮古島民殺害事件を契機に台湾出兵を行ない、沖縄
が日本領であることを清国に認めさせた。
(2) 沖縄分島事件
沖縄県の帰属問題は日本政府の一方的な強硬措置によって一応の解決をみ
たが、これに対し清国政府はしばしば抗議を行ない、日清間は沖縄問題に限
り外交断絶におちいった。たまたま東洋漫遊中の前アメリカ大統領グランド
が両国の調停にたち、明治13年、ここに沖縄分島事件といわれる問題が起
きた。
グランドの調停案に対し清国側は沖縄を三分して、奄美諸島を日本に、宮
古・八島山諸島を中国に譲り、沖縄島を中心に琉球王国をたて、冊封関係は
従来通り続けるという三分案であった。
日本政府は、当時日本に不利であった日清修好条約の改約を条件に、八重
山・宮古は譲ってもよい腹であった。しかし、交渉が長引いている間に、清
国は北にロシア、南にフランスと問題が起こり、また日本の関心は朝鮮問題
をめぐる問題に移り、分島問題は立ち消えになり、琉球列島はすべて日本に
所属することになった。はしなくも、戦後の沖縄をめぐる本土政府の無関心
ないしは国の利益の前に沖縄県を犠牲にしてかえりみないという態度の萌芽
をこの分島事件に見出すのである。
(3) 置県後の県政
琉球王朝時代、王府と薩摩藩の二重の搾取にあえいだ農民にとって、明治
政府の県政は決して農民の期待にそうものではなかった。土地制度・租税制
度・地方制度はすべて”旧慣温存”の方針が貫らぬかれた。土地制度におけ
る地割制度・租税制度も徴収法・貢租額においてほとんどそのまま残され、
世界でも例をみないほどの悪法といわれた宮古島の人頭税もそのまま引きつ
がれた。地方制度においても、旧来の間切・村の諸慣行や、王朝時代の地方
役人もその特権とともに採用された。本土で旧土地制度が改革され、地租改
正条例が公布されたのは明治6年、沖縄で「地方整理」の名で終了したのは
明治36年、地租条例が全島に施行されたのは翌明治37年で、本土に遅れ
ること実に31年である。そして土地整理がすんでいないという理由で、府
県制、市町村制などの地方制度の施行が遅れさらに国会議員選挙などの参政
権参加が大幅に遅れる結果となった。
本土の市町村制実施が明治21年、府県郡制の施行が明治23年なのに対
し、沖縄で市町村制が実施されたのが明治41年、府県制の施行は明治42
年である。しかも両法とも特例つきであり、これらの特例が廃されて“本土
なみ”の自治を獲得したのは大正9年のことである。衆議院議員選挙も本土
の明治23年施行に対し、23年後の明治45年であり、しかも宮古・八重
山両郡を除外する特例つきであり、この特例がとりはかられたのは大正8年
のことである。
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