音羽の自然と歴史その21
【第21回】知ればナットク,地域の不思議。え!元は音羽は「山科」ではなかった?
「芝町遺跡・諸羽神社」
音羽地域で古い遺跡は「芝町遺跡」です。京都市の『遺跡地図台帳』によれば,四ノ宮(奈良野町・芝畑町)・音羽(珍事町・平林町)・小山神無森町にかけて,「芝町遺跡」(縄文・弥生・奈良)が発掘されています。これにより,この音羽地域には,かなり古くから人々が住んでいたことがわかります。 「音羽」地域は,古来から「宇治郡」の一つではありましたが,当初は「山科郷」ではありませんでした。日本書紀や万葉集の頃,和名の呼び方では宇治郡は八郷に分かれ,現在の山科区は「大國(おおくに)・山科・小野」の三郷になっています。当時の「山科郷」は,現在の日ノ岡・御陵・北花山・上花山・東野・西野などを指していて,「小野郷」は,現在の小野・勧修・栗栖野・醍醐の一部などを含んでいました。そして,「大國郷」が,音羽・四ノ宮・竹鼻・大塚・大宅・辻などの地域を指していましたので,音羽は古くは「大國郷」であったと言えます。これは,「娘を垂仁(すいにん)天皇に嫁がした大國不遲(おおくにのふち)(日本書紀卷第六「垂仁天皇」の項)」の本拠地があったことから付けられたと言われています。その後,村上天皇の時代(946〜967)に『山科郷東限逢坂,西限松阪,北限山,南限醍醐』とされ,現在の「山科」のだいたいの位置が確定し,この頃から,音羽も「山科郷」の中に入ったと思われます(参考:京都府山科町役場『京都府山科町誌』臨川書店1973p13。「松阪」とは,現在の日ノ岡峠から蹴上にかけての坂道の地名)。862(貞観4)に創建されたと言われる諸羽神社。現在の大鳥居横の石碑(写真)に,「郷社諸羽神社」とありますが,この「郷」というのは,もしかしたら「大國郷」のことであったのかも知れません。
(記事 S.A)