音羽の自然と歴史その18

四ノ宮川

 山科北東部を流れる四ノ宮川は,山科盆地をつくる大きな働きをしました。四ノ宮川は大津市の長等山(ながらやま)から国道1号線の北側を沿って流れ,藤尾川と合流して四ノ宮地域・竹鼻地域を北東から南西に蛇行(だこう)しながら南下,音羽川と合流して山科川となります。この川は,古くからあり,山間の流れがこの四ノ宮で広がり「扇状地」を形成,四ノ宮・音羽地域の地形のもとになりました。それゆえ,山科盆地の中ではいちばん標高の高い地域ともなっています。この広がった川には大きな河原ができ,人々はここを渡って往来しました。だから,この場所のことを「四ノ宮河原」と言い,平安時代からこの地域の地名となっていました。明治時代のはじめに琵琶湖疏水がひかれた時に,この四ノ宮川に舟を通して,交通路にしようとする計画があったらしく,川の流れをゆるやかにするためにわざと川を蛇行(だこう)させたり,一燈園のあたりにインクラインをつくる計画もたてられましたが,結局インクラインはつくられませんでした。それは,当時の交通手段が,だんだんと川から鉄道や道路へと移ってきたからです。川の蛇行のあとは,今でも竹鼻地域あたりにみることができます。『山城志』という古い書物には,「四宮河原,一名袖河原」と書かれているところがあり,四ノ宮のことを別名「袖河原(そでがわら)」と言っていたらしいということがわかります。なお,藤尾川との合流地点から音羽川との合流地点までを「四ノ宮川」と言われてもいますが,大谷地域の方の話では,藤尾川との合流地点よりも上流でも四ノ宮川と呼んでいるという話を聞きましたので,ここではその説をとっています。

(記事 S.A)