寂光院 落合の滝 朧の清水 三千院門跡 実光院 勝林院 音無の滝 小野山 古知谷 阿弥陀寺 江文神社 金毘羅山 乙ヶ森 西之村霊神之碑 花尻の森 井出の町並み 惟喬親王墓 御香水 浄楽堂 宝篋院塔 和田の石仏 飯導寺神社 祖世野池 梅の宮神社

寂光院 (じゃっこういん)

 聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられている。
また、平清盛の娘であり、安徳天皇の母である平徳子が、平家滅亡後29歳の若さで出家し 建礼門院徳子として平家一門の菩提を弔った尼寺。
  「おもひきや深山の奥にすまゐして 雲ゐの月をよそに見むとは」 建礼門院  平家物語
 平家物語では、建礼門院を訪ねて来られた後白河法皇の大原御幸(おおはらごこう)の記述がある。
  「池水に汀(みぎわ)のさくら散りしきて 浪の花こそさかりなりけれ」 後白河法皇  平家物語


落合の滝 (おちあいのたき)

 草生町の寂光院への道のすぐ脇にある小さな滝。ふたつの小川が合わさるところにある。
  「ころころと小石流るる谷川の かじかなくなる落合の滝」 建礼門院

朧の清水 (おぼろのしみず)

 小さな泉ですが、今も冷たい水がわき出ている。ぜひ月を映して見たい泉です。歌枕として 平安時代からたくさんの歌に詠まれてきた。
寂光院に隠棲した建礼門院も親しんだ泉です。
  「そよ 大原やおぼろのしみづ世にすまば 又もあひみんおもがはりすな」  後白河法皇撰 梁塵秘抄
  「すみなれし おぼろの清水せく塵を かきながすにぞ すゑはひきける」 西行法師  聞書集、往生要集
  「ひとりすむ おぼろの清水友とては 月をぞすます大原の里」 寂然法師  山家集
  「程へてや 月も うかばん大原や おぼろの清水すむなばかりに」 良暹法師  後拾遺集
  「水草ゐし 朧の清水そこすみて こゝろに月の 影はうかぶや」 素意法師   後拾遺集
  「入る月の朧の清水いかにして つひに澄むべき影をとむらん」 順徳院  続古今集
  「大原や いづれ朧の清水とも 知られず秋は すめる月かな」 兼好法師
  「春雨の 中におぼろの 清水かな」 与謝蕪村


飯導寺神社(はんどうじ じんじゃ)

 野村町の鎮守の森で農耕神の飯導大権現を祀る。「はんどじさん」とも呼ばれる。
境内には十月十五日の秋祭りに相撲が奉納された土俵が残っている。

 比叡山の天台僧であった良暹(りょうぜん)法師がこの近くの良暹山に隠棲した。
 「さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮れ」 良暹法師  後拾遺集

祖世野池(そよのいけ)・真守鉄盤石(さねもり かなとこいし)


 池の名がついているが、今は小さな泉である。
三条小鍛冶宗近が使った小鍛冶の水ともいう。
左手前には、刀を鍛えたという平らな鉄盤石がある。

和田の石仏 (わだのせきぶつ)

 樫の木の木陰におられる和田のお地蔵さん。
もとは三千院の翁地蔵の傍におられたが、その翁地蔵とけんかして耳をかみ切って勝ち ここへやって来られたという。

三千院門跡 (さんぜんいん もんせき)

 三千院は最澄の時代に比叡山に建立された円融房が、たび重なる移転の後、ここに移ったとされている。以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれていた。また、青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。
 往生極楽院の本尊である阿弥陀三尊坐像は国宝に指定されている。




実光院 (じっこういん)

 天台声明を伝承するために建立された寺のひとつである。
律川の水を取り入れ、池の手前を俗世間、向こう側を仏の浄土に見立てた池泉観賞式の庭園と、茶室のある池泉回遊式の庭園の2つがある。


勝林院 (しょうりんいん)

 古くから来迎院とともに天台声明の道場であった。
 平家滅亡の翌年(1186年)ここ勝林院で、浄土思想をめぐり 法然と他宗派が大原問答を行った。  律川に架かる赤い橋のそばには、熊谷蓮生坊が法然上人を守るために持っていた鉈(なた)を捨てさせた「鉈捨藪」の石碑がある。
 大原女行列の出発点を寂光院と1年ごとに交代する。

音無の滝 (おとなしのたき)

 天台声明や融通念仏宗をおこした 良忍上人の声明が滝の音律に同調して音が消えて無くなったと言われ、この滝を「音無」と名付けた。律川の上流にあり、三千院手前の山道を20分ほど登ったところ。
 「音なしの滝とは聞けども昔より 世に声高き大原の滝」 西行法師
 「小野山の上より落つる滝の名は 音無にのみ 濡るる袖かな」 西行法師  夫木集
 「恋ひわびて ひとりふせやに 夜もすがら 落つる涙や 音無の滝」 藤原俊忠  詞花集
 「朝夕に泣くねを立つる小野山は 絶えぬ涙や音無の瀧」 紫式部  源氏物語・夕霧の巻

 古文書「北肉魚山行記」では、もっと奥に規模の大きな本当の音無滝があると書かれている。これが現在のどの滝のことを指しているのかわからない。一の滝が現在の「音無滝」と呼ばれているもので、さらに上流に二の滝と三の滝がある。(山岳部ページ)

小野山(おのやま)

 もとは梶山・小野山などの大原の東側にある山の連なり全体を指していた。この地にいた豪族、小野氏のかかわりがあるのだろう。小野の里には藤原敏行、紀貫之の別荘があったとも言われている。
音無の滝と共に和歌によく詠まれた地名であり、かつては炭焼きの里としても知られていた。
 「ふる雪もをやめやをやめ小野山に 椎柴かるはしばしばかりぞ」 源顕仲  永久百首
 「都にも初雪ふれば小野山の まきの炭竈(すみがま)たきまさるらむ」 相模  後拾遺集
 「雪わけて外山をいでしここちして 卯の花しげき小野のほそみち」 西行法師  山家集
 「都近き小野大原を思ひ出づる 柴の煙のあはれなるかな」 西行法師  山家集
 「よそにてもさびしとはしれ大原や 煙をたへぬ炭がまのさと」 土御門院 新続古今
 「炭がまの煙の里の名にたてゝよそにもしるきをのゝ山下」 藤原伊定 新続古今
 「秋の山もみじをぬさと手向ければ住む我さえに旅ごこちする」 紀貫之 古今集

古知谷 阿弥陀寺 (こちだに あみだじ)

 木喰上人弾誓が開創した浄土宗の寺院。阿弥陀如来坐像は重要文化財。
境内は紅葉の名所として知られる。樹齢800年以上の古知谷カエデは京都市の天然記念物に指定されている。

江文神社 (えぶみじんじゃ)

 江文神社は大原八ヶ町の総氏神。
 古くから江文山(金毘羅山) の頂上の朝日の一番早く登るところに祀られていた神々を、
平安時代の後期に 里人がふもとに御殿を創建したと伝えられている。
 「昔、井出の大淵に大蛇がいて、おりおり里に出て 人を捕り食らうので江文神社に集まって隠れた。」といわれている。



 9月1日にはそれぞれの町の提灯を掲げて集結し、道念踊りがおこなわれる。

金毘羅山(こんぴらさん)

 古くは江文山と呼ばれ、火壷・風壷・雨壷があり、雨乞い祈願が行われたとのこと。また、この山は平安京の東北の鬼門に当たるとされた。
 火壷(ひつぼ)、雨壷(あまつぼ)、風壷(かぜつぼ)〔井出村江文社の後山にあり。山間に自然の三窟にして石の蓋あり、旱の時雨壷に向ふて雨を祷るに感応あり。此地魔所なりとて土人怖れをなすなり〕拾遺都名所図会
 後年、山の中腹に金比羅大明神と崇徳天皇を祀る琴平神社がつくられた。これは四国に流された崇徳天皇が金毘羅神を崇敬していたためである。
 山の東面には岩場が点在し、ロッククライミング練習のゲレンデでもある。

おつう伝説

「昔、大原の里におつうという娘が住んでいた。ある日、若狭の殿さまに見初められ、女中として若狭で暮らしたが、病に伏すと殿様の熱も冷め、里に戻された。おつうは悲しみのあまり、大原川(高野川)の女郎淵に身を投げると、おつうは大蛇となった。 そしてある日、殿様の行列が花尻橋を通りかかったところを襲った。荒れ狂う大蛇は家来に切り殺された。すると その夜から激しい雷雨や悲鳴に見舞われた。 恐れおののいた村人たちは大蛇の頭を乙が森に、胴は西之村霊神之碑のところに、尾は花尻の森に埋めて、霊を鎮め供養した。その後、大原の里にかかる朝もや(小野がすみ)は大蛇の姿にたなびくといわれている。」

乙が森 (おつがもり)


西之村霊神之碑 (にしのむられいじんのひ)


花尻の森 (はなじりのもり)

 波那志里の杜(はなじりのもり)と書き記すのが元であったらしい。
 猿田彦神を祀った小野源太夫社と称する小社があって、江文神社の御旅所となっていて 一の鳥居がある。
ここにはツバキの古木がたくさん見られる。
 源太夫社〔杜の中にあり、江文の末社なり。此社の北に江文の一鳥居あり〕拾遺都名所図会


小野霞 (おのがすみ)

 雨のやんだ冬の朝など、大原を囲む山の中腹を白い大蛇のように伸びる層雲を小野霞と呼んでいる。

井出の町並み (いでのまちなみ)

 川の氾濫に備えた、しっかりした古い石垣と旧家の町並みが いまも残っている。

惟喬親王(これたかしんのう)旧跡

 文徳天皇の第一皇子。 大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守などを歴任したが、二十九歳で出家したあと この地に隠棲した。
 〔上野の村南の方田の字に御所の内といふあり、伝云、惟喬親王閑居の所なりとぞ。又同所ひがしの山際に一本杉といふ所あり、其地に古き石塔あり、土人云、惟喬親王の御墓なりと云伝ふ〕 拾遺都名所図会
 これたかのみこのもとにさしかり かよひけるを、かしらおろして をの(小野)といふ所に侍りけるに、正月にとぶらはんとてまかりたりけるに、ひえの山の麓なりければ、雪いとふかゝりけり、しゐてかの室にまかりいたりて、
  「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて君を見んとは」 在原業平  古今集
  「白雲の絶えずたなびく嶺だにも 住めば住みぬる 世にこそありけれ」 惟喬親王  古今集
  「桜花散らばちらなむ散らずとて ふるさと人の来ても見なくに」 惟喬親王  古今集
  「夢かともなにか思はむ憂き世をば そむかざりけむ程ぞくやしき」 惟喬親王  新古今集

御香水 (おこうすい)

 「昔々、里を荒らす白狐に困り みんなで狐狩りをすることになった。ところが、白狐は上野村の吉兵衛さんのかまどの中に隠れて捕まらなかった。
 その夜、吉兵衛さんの夢に白狐が恩返しに現れ、屋敷のうしとら(北東)の方角を掘れば清水が湧き出て霊薬になると教えてくれたのです。そこを掘ってみると、きれいな清水が湧いてきたそうです。」
 この泉はふだんは湧かず、毎年一回、旧暦の六月十五日にだけ出るということです。

浄楽堂(じょうらくどう)

 昔はこの近くに惟喬親王のお寺が36あったが火災で焼け、残った仏様ををここへお奉りした。十一面観音、地蔵菩薩、阿弥陀如来がおられる。
 ここでは、成人の日にお碗に盛られたサイコロ状の大根を転がし、これを全員が繰り返す「おこない」と、篠竹の的に向かって矢を射る「お弓」が氏子によって行われる。

梅の宮神社(うめのみや じんじゃ)

江文神社の境外摂社で、木花咲耶姫を祀る。  境内には大きな榧ノ木とカツラの木がある。
本校はここ梅の宮神社の東側に接したところに、大原校として明治八年五月二十八日創立された。

龍女山摂取院(りゅうにょさん せっしゅいん)

 蛇道心寺という、浄土宗の寺院。聖徳太子の作と伝えられる本尊阿弥陀仏がある。
 開基 浄住法師〔此法師俗人たりし時、専ら色欲を好み、妻の妹に密通しぬ。妻これを嫉といへども制するに力なし、終に苦悩して死す。其怨霊たちまち小蛇となつて夫が首に纒ふ、取すて殺せども寝中に現じて又もとのごとし。こゝに於て罪業の深きを悟つて、剃髪染衣の身となり、此地に蟄居して、もつぱら念仏を修す。されども蛇は常に首を去ず、いよく自障懺悔しぬれば、老年におよんで蛇首を脱して成仏すと夢見る。これ滅罪歓喜して、益念仏怠らず、往生素懐を遂にける。已上縁起の大意〕拾遺都名所図会

宝篋院塔 (ほうきょういんとう)

 大長瀬町公民館のそば。 右側のが古く、鎌倉時代のものだそうだ。元亨元年(1321)建立という刻印がある。
左側の塔は南北朝時代の作といわれる。 右手前におられるのは不動尊。このところに墓地があったそうです。