上御霊通小川から寺之内通小川までの間の約200メートルの小川通は、室町学区のなかでも 最も京都らしい古都の風情を残す場所です。小川通に沿って両側に、表千家・不審庵、裏千家・ 今日庵、京の町屋造りの茶道具店、そして本法寺があります。かつて、日本の映画産業が盛ん な時期は、時代劇の撮影場所としてもこの通はよく使われていました。現在でも、両千家の茶道 研修生が、着物を着て通る姿を日常的に見受けます。着物が良く似合う場所です。 「門前に小川の名残を止める本法寺は、日蓮宗京都十六本山の一つで、叡昌山と号します。 開基は不受不施を唱えた日親で永享年間(1429−41)に創建されたようです。 日親は幕府の庇護をたのみとする禅宗を批判して立正治国論を著して将軍義教に献上したため、 その怒りに触れて投獄され、焼鍋をかぶらされるという拷問を受けたところから鍋冠り日親といわ れて、その不屈の精神を称えられました。嘉吉の乱(1441)うで義教が殺されたあと出獄し、獄 中で知り合った本阿弥本悦(光悦の曽祖父)の力によって本法寺を再興します。 天文法華の乱で一時堺に避難しますが、やがて一条堀川に再建、聚楽第造営によって現在の 場所に移されました。天明の大火後に再建されたのが今の堂宇で、本堂・開山堂・多宝塔・仁王 門の四棟は棟札によって、寛政8年(1796)から文化5年(1808)の間に建立されたことが明ら かです。その他の府指定の建造物とともに日蓮宗本山の伽藍景観を伝えているとして京都府指 定有形文化財となっています。また、国指定名勝の書院の庭園は光悦の豪放な作で、三つ巴( みつどもえ)の庭呼ばれています。 本阿弥家は刀剣の鑑定や拭いを業とした家で、その一族の光悦(1558−1637)は、書画や 工芸に秀でた芸術家です。墓地には、本阿弥一族の墓があり、光悦筆になる法華題目抄や如説 修行抄、長谷川等伯関係資料、金胴宝塔、平安時代の紫字金字法華経など8件が重要文化財、 開基日親の画像と狩野山楽筆の唐獅子図屏風は京都府や京都市の指定有形文化財となってい ます。」 上京文化振興会「上京区の史蹟百選」より転載(転載承認済) |