このページでは,地域の歴史や旧跡を紹介します。

明智薮(あけちやぶ)
天正十年(1583)山崎の合戦で秀吉に敗れた明智光秀が家来と坂本城へ逃れるため,伏見,山科,大津へと続く細い道にある,この薮にさしかかったところ,襲撃を受けて殺されたと伝えられています。光秀が殺された場所はここではなく,他所であるという説もありますが,現在も明智薮と刻まれた石碑があります。今では,薮は取り除かれ,この石碑だけが残っています。

弘法 杖の水(こうぼう つえのみず)
南小栗栖南端の小栗栖街道から西へ深草に抜ける山道があり,百メートルほど入った路傍に杖の水と刻まれた石仏があります。今も湧き出る清泉は弘法大師が杖(つえ)の先で掘ったと伝えられています。

子安地蔵(こやすじぞう)
この地蔵尊の守護により,小栗栖には難産の人が少ないといわれます。もと本経寺の近くに粗末な祠(ほこら)がありましたが,調査の結果,日本三体地蔵の一つであることがわかりました。土地の人達によって小坂町「遊園地」内に御堂を建て移されました。

本経寺
日蓮宗の寺で永正三年(1508)に創建されました。明智薮の近くには「本経寺檀林(だんりん)」があり,日蓮宗の道場として僧侶たちの研学施設になっていました。明治初期までは,その門である「赤門」が残っていました。明智薮は,その後,所有する者は災いに陥るといわれ,本経寺に寄進されました。

法琳寺跡(ほうりんじあと)
法琳寺は,小栗栖北谷町一帯に存在した寺で,旧国名は山城国宇治郡小栗郷にあたります。七世紀の中ごろ,藤原鎌足の子,定恵(じょうえ)が建立したといわれ,一名を小栗栖寺ともいいます。やがて荒廃したのを平安時代のはじめに再建しようとしましたが,再建は軌道にのらず,ついには廃寺となってしまいました。この法琳寺の近くには瓦窯跡があり,のぼり窯が発見され,寺の創建当時の古瓦が多く見つかっています。現在,法琳寺跡付近は,畑作や竹の子栽培などのため,地下にある遺構がかなりいためられていることが予想されます。

おぐりす灸
今から約二百年ほど前,信仰深い老女が旅の虚無僧(こむそう)からこの灸の秘法を教えられたといわれています。もとは深草にありましたが,宝永年間(1704〜1711)にこの地に移されました。昭和初期には,毎日二百人から千人の人々の行列ができたといわれています。