歴史の中の校下
| 勧修小学校百年誌より 皇室の御料地として山科が我が国の歴史に登場するのは千四百年前のころといわれている。三十七代斉明天皇の御代である。皇室の神祇祭祀を任務としていた中臣氏が住んでいたのが中臣町あたり。地名も山階と書いた。中臣氏が中臣連(ナカトミノムラジ)のころ、鎌足が出て、中臣朝臣(アソン)、さらに大中臣朝臣、鎌足の死後、藤原姓を皇室から戴いたのは有名である。鎌足は斉明天皇の三年に陶原巻(ヤスハラノヤカタ)を大宅に建て、東野に寺院も設けた。これが山階寺といわれる。 しかし、これには異論もある。御陵から日ノ岡付近だったという説や栗栖野中臣町付近だったという説。 山階は、天智天皇が近江に遷都されたころ、大いに発展した。山科の地名は、万葉集に女流歌人額田王(ヌカタノオオキミ)が「やすみしるわか大きみのかしこみや御陵つかえる山科の鏡の山によるはもよ」とある。平安朝の諸陵寮式に「山階凌近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡」とある。第六十二代村上天皇時代の「和名抄」に山科郷の名前が出ている。 「和名抄」に出ている山科郷は、日ノ岡、御陵、安朱、西野、東野、花山。大国郷は大宅、音羽、大塚、椥辻。大国氏が住んでいたのでこの地名になった。小野郷が小野、勧修寺、栗栖野、醍醐の一部だったようである。 川田 約千三百年前、白鳳時代、宮中に仕えていた大倉人良基(オオクラノトネリヨシトモ)が原野を開拓、中西路といった。その後西浦村と改称し、約四百年前に川田と改められた。 栗栖野 小野郷西野山、東野両村にまたがった字名だった。徳川家光の娘千代姫が享保十五年八月に買い上げ、乙訓郡山崎村の観音寺に寄贈した。久世郡寺田村、紀伊郡富森、百鳥羽村の村民が移住して開拓、栗栖野新田と称した。明治五年に栗栖野と改称した。 勧修寺 山科郷の南のあったので、南山科とも呼ばれていた。千七十年前(勧修小学校百周年のとき)、醍醐天皇の母、?の願いで亀甲山勧修寺(カジュウジ)が創建され、勧修寺(カンシュウジ)と地名を名乗った。 西野山 南花山、西花山ともいわれていたらしい。改称の理由や年代はわかっていない。 椥辻 大宅、大塚と同じ村だったが、いつのころからか改称した。なぎ(椰)の大木があり四方からの目印ともなっていたので、木で村のあり場所を知る土地というので椥(ナギ)と読ませたという。 大宅 小野郷山階村から大国郷となった。中臣鎌足の邸宅があった。大きな邸だったので、大屋家(オオヤケ)といっていたのが大宅となったらしい。 小野 女流歌人で有名な小野小町も書家小野道風の一族の本拠だったので、この地名になったといわれる。しかし真偽のほどは確かではない。随心院には小野塚、化粧井戸跡などがある。 山科離宮跡 後白河天皇の御所で約八百年前の治承三年に建てられたが、翌四年、三井寺僧徒の手で焼失した。大宅に広御所、唐門、中ノ御所、沢野井、林殿、泉殿、御所田、御所山の町名がのこっている。離宮の所在地だったことを示しているようだ。 沢御殿跡 源頼朝が文治三年に大宅沢に建てたが、現存していない。 深草少将の通路 勧修寺氷室池の南、八幡前谷川筋ではないかといわれる。墨染への道で小野小町に恋をした深草少将は、子の道を通って小野へ通ったらしい。約束の百夜をあと一日にして死んだことから不吉の道だというので、当時,伏見城にいた豊臣秀吉がつぶしてしまったという。 小野小町 随心院境内の竹林の中に井戸があり、小野小町の邸跡といわれる。この井戸を小野井、小野水ともいう。安祥寺橋を化粧橋ともいうのは、小野小町にちなんだもの。随心院の文塚は、小野小町が殺到する恋歌の処理に困って埋めたところから桜塚とも呼ばれている。 明智塚 勧修寺御所内町の田の中にある円丘状の塚。天王山の戦いに敗れて、滋賀県坂本に逃げる途中、小栗栖の竹やぶで土民にワキを刺されて死んだ。家臣が首だけを田の中に埋めた。竹やぶは南小栗栖、本経寺の側にあり、このやぶの所有者はたたりがあるというので寺が所有している。 一里塚 江戸時代、徳川幕府は、諸国の大名に江戸への参勤交代を命じた。西国の諸大名には京都市内を通過することを禁じた。京都御所との連絡を絶つ意味から、大阪から淀川を伏見まで、水路で伏見から醍醐を通って急なら街道を大津へ向かわせた。大宅中小路町、岩や神社を南へ行ったところにむくの大木が二本、一里塚と記している。 旧東海道線と山科停車場 名神高速道路がそのまま旧鉄道路線跡である。京都〜大津間は、現在の東海道線の四十パーセント長いという。稲荷、山科、大谷、馬場、石場の五駅があって大きな峠が二つあった。京都駅から深草瓦町まで南下したあと、稲荷丘陵の谷間伝いに、中茶屋、勧修寺を通って、山科盆地の東端、岩や神社の西に向かっていた。稲荷駅では、列車の前につけるランプの油を補給していたらしい。 停車場は、名神の山科川あたりではなかっただろうかといわれる。山科盆地のもっとも低い地点で停車場道という道標で現在も残されているのは西野山射庭ノ上町の一ヶ所だけではないだろうか。以前には五ヶ所くらいに建てられていたらしい。 |
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