社会科部

大阪城現地調査(7月25日)

新撰組、源義経、そして今年のテーマは戦国時代。これも大河ドラマの影響か!?

乾櫓
 
西の丸の西北(戌亥)隅を守る隅櫓で、元和6年(1620)に小堀遠州の設計で造営された城内最古の建造物。平面はL字形で総2階造り(1階と2階が同じ床面積)の珍しい形式二重櫓である。この上に望楼を乗せた形が天守閣の原型とされ、櫓としては古い形式を示している。
 
算木積みの石垣
 大坂城が再築された元和〜寛永頃は築城技術の完成期にあたり、特に二の丸南面の外堀に面する高石垣は、仕上りが洗練され、かつ豪壮な姿を見せる大阪城の代表的石垣である。
 石垣の角の稜線を形作る角石と角脇石を井桁状に組んでいく算木積みの技術を使っている。
千貫櫓
 西の丸庭園の西南隅にあって、多聞櫓のすぐ北側に位置している。西の丸庭園西北隅の乾櫓とともに現存最古の建造物である。千貫櫓の名は、石山本願寺時代に織田信長の軍勢が攻撃を繰り返したとき、この付近にあった隅櫓からの横矢攻撃に悩まされた攻め手の将兵らが「千貫文払ってでもあの櫓を手に入れたい」と話し合ったことに由来すると伝えられており、その頃から続いた呼称と考えられる。
大手門
 大阪城の正門で、古くは追手門とも書いた。寛永5年(1628)の創建。
高麗門様式。幕末の嘉永元年(1848)に修復され、昭和31年(1956)に解体修理された。解体修理の結果、天明3年(1783)の雷火には焼け残り、屋根のみ幕末に改修されていたことが分かった。
笑い積みの石垣
 大阪城の正門である大手口枡形には大手見付石や大手二番石などの巨石が使われている。これらの巨石と巨石の隙間には笑い積みという石積みが施されている。
桜門
 桜門枡形は本丸の正面入口で、天守閣を真正面に望むことができる。「桜門」の名は、豊臣時代以来のもので、この付近に見事な桜並木があったので、名付けられたという。 この桜門枡形を囲む巨石群は城中で最も見事なもので城内第1位の蛸石、第3位の振袖石をはじめ、巨石がめじろ押しに並んでいる。
 
蛸石
 桜門枡形は本丸の正面を守る重要な枡形である。特に立派な巨石が用いられている重さは約130トンと推定される。蛸石という名は、石の表面左端に酸化第二鉄による茶色い蛸の頭形のシミがあることから名付けられたものと考えられている。この枡形は岡山藩主池田忠輝が担当したもので、備前(岡山県)産の良質花崗岩が用いられている。

 
金明水井戸屋形
 昭和44年(1969)の解体修理の際に「寛永三年十月吉日」との墨書が発見され、寛文5年(1665)の落雷による天守炎上と慶応4年(1868)戊辰戦争の本丸炎上という2度の火難にも奇跡的に焼け残ったことがわかった。なお、江戸時代にはこの井戸は「黄金水」と呼ばれていた。
大阪城天守閣
 信長の天下統一を引き継いだ秀吉は、天正11年(1583)安土城を凌ぐ権威のシンボルをつくるため石山本願寺跡に築城を開始した。黄金で飾られた天守閣に代表される豪壮な巨城は見るものを驚嘆させた。この時代は大坂城。
 大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城だが、大坂が幕府直轄領となり、元和6年(1620)2代将軍徳川秀忠により幕府の威信をかけた大坂城再築工事が開始され、3代将軍家光の時代に完成した。しかし、天守閣は寛文5年(1665)に落雷により焼失、以後昭和の復興まで266年間、大坂城に天守閣はなかった。ちなみに「大阪」と書かれるようになったのは明治になってから。
 昭和3年(1928)当時の大阪市長、関一(せき・はじめ)が天守閣復興を提案。議会の賛同をえると、市民からの寄付が殺到し、わずか半年で目標額150万円に達した。昭和6年(1931)11月7日、当時としては最新の建築工法である鉄骨鉄筋コンクリート造り、わが国では前例のない地上55mの超高層建築として大阪城天守閣は竣工した。


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