石田校区

本校の東に,樹木の生い茂った石田杜(いわたのもり)神社がある。

外環状線に面した神社への入口には「万葉遺跡石田杜」
と記された石碑があり,そこから細い道をたどって行くと,
神神社の鳥居にでる。


その鳥居の北側に万葉の碑があり,

山科の石田の小野の柞原(ははそはら)

見つつや君が山道(やまじ)越ゆらむ
[宇合 卿(うまかいの きょう)]


と,記されている。宇合 卿というのは,藤原鎌足の孫で,奈良時代初期の公卿である。遣唐副使として渡唐し,帰国後,蝦夷討征や難波宮造営にあたり,731年(天平3年)参議七三四正三位となり,737年流行の疫病で亡くなったそうである。

 「ははそ原」というのは,くぬぎ・こなら・おおなら等の林のことだそうである。この和歌からもしのばれるように,遠く奈良時代には,このあたりから山科の小野にかけて,くぬぎ林が続き,石田の森はもっと広い範囲であったようである。そして,大江から大和へ,また大和から大江へと旅する人々の心をなごませる役割をこの石田の森の木々や草花がしていたのであろう。

比較的大きな杉や楠の林の中を通って境内を行くと,拝殿があり,この神社の由緒やたくさんの和歌が書かれた札がかけてある。

 その札には,

山品の石田の森を踏越せば けだし吾妹に直に逢わむかと

千載集

秋といへば石田の森のははそはら時雨もまたず紅葉しにけり

覚盛法師

山城のいはたのもりのいはずとも心の中を照らせ月かげ

藤原輔尹朝臣

作原色づきぬらし山城のいはたの小野にしかぞなくなる

惟宗忠景

などの作品が記されている。奈良時代から鎌倉時代に渡る作品だそうであるが,鳥居などの石造物は江戸時代末のものがほとんどだそうである。

かつて,このあたりは水田が広がり,池や沼があったようである。神社の境内は,社殿を中心に周囲数千坪で,雨季の洪水もときにはあり,その時は付近一帯の田園は池沼と続いたそうである。

明治38年ごろから葦原を開き水田とし,外環状線ができるまでは,旧街道から西方,小栗栖の間は山科川を挟み,一面田園で,米作りがさかんであった。

現在は,高層の団地が建ち並び,児童の多くは団地から通っている。校区の人々は区内の醍醐図書館や東清掃工場の余熱を利用した温水プールも利用している。

また,地下鉄東西線延長工事が進められ,本校のすぐ近くに地下鉄石田駅ができる。JR六地蔵駅と地下鉄が連絡することになると,市内中心部への交通が益々便利になり,人の流れも多くなると考られる。        (創立10周年記念誌石田より抜粋)