

平安時代から大宮人が狩猟や若菜摘みなど風流を楽しんだ景勝地であった広沢学区は、豊かな自然環境に恵まれています。丸太町通の北には、笠をふせたようななだらかな美しい遍照寺山や洋々とした広沢池を中心にのどかな造園畑や田園風景が広がり、桜や梅や紅葉をはじめ季節ごとに美しい花が咲き、訪れる人々の目を楽しませてくれます。その間をぬって、美しい有栖川がゆったりと流れています。「有栖川を考える会」をはじめ地域の人々の川清掃・植樹・栽培などの熱心なボランティア活動により、川端に美しい季節の花が咲く有栖川には、めだかなどの小魚が泳ぎ、近年は、上流域でホタルも飛び交い、隠れた観光の名所となっています。
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遍照寺山(別名朝原山)
広沢池の北にある笠を伏せたようななだらかな美しい山です。千代原山とも言われていたと言う記録もあります。朝原山という名は「日本三代実録(901年)」に大覚寺の寺地を記すのに「東、朝原山に至る」との文言が見えます。朝原という名は、この辺一帯を開発した秦氏の秦忌寸が朝原忌寸と改姓したところによると考えられます。永祚元年(998年)に遍照寺が創建されてから遍照寺山と呼ばれるようになりました。開山の名にちなんで寛朝山ともいわれました。

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広沢池
広沢池は、朝原山(遍照寺山)の南麓にあって右京区では一番大きな池です。奈良の猿沢池・大分県の初沢池とならんで日本三沢のひとつに数えられています。その周囲はおよそ1.2km、広さ役13haで、用水池として近隣の水田灌漑に使われていましたが、近年は鯉などの養殖も行われており、年末(12月初旬)に行われる「鯉上げ」は冬の風物詩ともなっています。鯉上げで水のなくなった池には、冬の渡り鳥が訪れてきます。
大覚寺宮の臣武田信成が、広沢池に鶴が舞い下りたのを祝し、当時の門跡に奉った寿詩も残っています。
朝霧にかすむ池や錦秋の山々を池面に映す池の美しい姿など見所のたくさんある景勝地です。また、舟・ボートを備え観光施設としての役割も果たしています。

その起源については、宇多天皇の皇孫寛朝僧正が永祚元年(989年)朝原山に遍照寺を建立した時に開かれた池と伝えられています。別名遍照寺池とも言われていました。また別の説によれば、「続日本紀」には、「宝亀7年(776年)2月25日条に、山背国葛野郡人秦忌寸造等97人に朝原忌寸が賜姓された」との記事があり、沢沼地であった嵯峨野を開拓した秦氏の支族が、朝原山の名を採って朝原と称したことが知られており、広沢池は、そのころ作られたとも言われています。広沢池には、昔、のある観音島、月見堂、釣殿、大覚寺宮の観月亭であった潜龍亭などがあったといわれています。特に、西岸近くの観音島には、遍照寺から橋が架けられ、千代の古道(京都御所から嵯峨御所へ通う途中の小高い丘のすその道)を通って大宮人が観月のために盛んにこの地を訪れたようです。現在も池に映る朝原山の倒影や付近の清景はたくさんの人々に愛され、風流人達の楽しむ場となっています。
広沢の池に浮かべる白雲は底吹く風の波にぞありける。(源重之集)
散る花に汀のほかのかげそいて春しも月は広沢の池
(藤原定家「拾遺愚草」)
心には見ぬ昔こそうかびけれ月にながむる広沢の池
(藤原良経「秋篠月清集」)

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有栖川
有栖川は短い川ながら昔から名は高く、斎川(いつきがわ)とも称され、古い記録には有巣河と記されています。顕昭の「袖中抄」に「ありす河は斎院のおはします本院のかたわらにはべる小河也」とあるように。古くは斎宮の設けられた川を有栖川といったようです。したがって有栖川は賀茂、紫野、嵯峨野三ケ所にありました。
有栖川は大覚寺の北、観空寺谷奥を源流とし、源流辺りの水は、農業用水にも使われています。大覚寺の境内を通り抜けて住宅地へ。途中、嵯峨中学校の敷地を流れ、もう少し南に進むと西高瀬側と立体交差し、有栖川は途切れることなく流れつづけています。いつの間にかコンクリートに囲まれた川は少しずつ浅く、広くなり、高田・梅津を経て上野橋付近で桂川に合流します。有栖は、荒樔・荒瀬の意味で、嵐山が古く荒樔山といわれ大椻川(桂川)が元来荒樔川であったと言われています。江戸時代は灌漑用水として重要視され、用水掛りの池裏と下嵯峨・生田の三ケ村の分水争論等もあったようです。

(3)千代の古道
千代の古道の名の始まりは、光孝天皇が嵯峨天皇の古例にならって芹川野に遊猟された折、在原行平が詠んだ歌、「嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の千代のふる道跡はありけり」(後撰和歌集)によるものと考えられます。
江戸時代になって、嵯峨天皇が都から嵯峨離宮(大覚寺)に通われた道として、いろいろと詮索されるようになり、鳴滝から音戸山南麓を経て広沢池東南に通じる一条通などが想定されるようになりました。