
歴史のたいへん古い広沢学区には、史跡が数多くあります。その一部を紹介します。

(1)
児社(ちごのやしろ)
児社は広沢池の西南にあって、祭神は、遍照寺の開山寛朝大僧正に仕えた稚児です。言い伝えによれば、僧正が亡くなった際、朝原山の山腹の老松から龍となり、静かに昇天していくのが見えたと伝えられています。師を慕っていた稚児は悲しむあまり、広沢の池に身を投じて亡くなったといわれ、その霊を弔うために祀ったのだといわれています。
創建年月は未詳。社殿は1m四方ほどの宮殿造りで、周囲は覆屋で覆われています。明治10年に村社となり、池ノ裏町の氏神として維持されてきました。毎年10月の第1日曜日の祭日には子供みこしが出されます。以前は入り口が一条通に面していましたが、昭和61年の道路整備の時、池に面した東側より入ることになりました。その時に鳥居・玉垣等も新設されました。
尚、境内には、寛朝僧正が生前坐禅を組まれた際、稚児がいつも腰掛けていたという石の椅子が残っています。社殿で祈願してこの石椅子に座ると、長命・安産・子供の無病息災がかなうと言い伝えられています。
「ちごの宮ちごは安けく生いたちて神の恵のふかきをぞ知る」(永休)
(2)
広沢古墳の石像
広沢池の南側、池の端に4基の古墳が点在している。台地の平坦部に立地し、標高40m。4基とも古墳時代後期の円墳であるが、破壊が著しく進んでいます。
広沢池を下った東側に堀川高校のグランドがあります。野球のバックネット裏に樹木が茂り、そこに小さな祠が静かに建っています。中をのぞくと高さ50cmほどの岩の像が鎮座しています。鼻はひん曲がり、厚ぼったい口はゆがんでいます。なんともユニークな表情をした不思議な岩石の顔です。古墳から出土したこの石像は石棺と同じ石質材で、のみを使用した跡が見られません。バックネット裏の古墳を守っているのかもしれません。重要文化財指定の話もあるそうです。

(3)
稲荷古墳(いなりこふん)
稲荷古墳は遍照寺の北側にあり、墳頂部に稲荷を祀っているために、この名がつけられています。現在は削られ変形して楕円形になっていますが、もとは経約25mの円墳であったと考えられます。石室は開口していませんが、中に横穴式石室が埋まっていると思われます。

(4)
遍照寺(へんじょうじ)
広沢山遍照寺は、花山天皇の勅願により宇多法皇の孫にあたる寛朝僧正により、永祚元年(989年)に建立されました。寛朝僧正は、寛空から両部灌頂を受けて、東密の正系を継ぎ、当寺を拠点に東密事相を興隆させ真言宗広沢流の本源地となしたと言い伝えられています。当寺は広沢山と号し、御室派準別格本山です。もとは、朝原山の麓にあって大覚寺とならぶ壮大な寺院であったがしだいに衰え、寛永10年(1633年)現在の地に再興されました。平成9年、庫裡・客殿が新築されました。本堂には重要文化財(大正6年国宝指定)の十一面観音立像(木像)、不動明王坐像(木像)が安置されている。不動明王坐像は関東成田新勝寺の有名な像と一木二体であって、弘法大師の作と伝えられています。近年、広沢池の西北岸で同寺の建物跡が明らかになり、平成4年京都市史跡に指定されています。開山の寛朝は、長徳4年(998年)6月入寂(僧史に記載)し、朝原山より登天したといわれています。山の古松が「登天の松」と言い伝えられていましたが、現在では墓も「登天の松」も見ることが出来ません。寛朝が坐禅をしたという大磐石が山中に唯一残されています。

《十一面観音立像》
高さ4尺1寸(約124cm)一木彫。右手を垂れ、左手を上げ、右足を遊び足にして膝を少し曲げています。顔容は豊満、衣文は流麗で、仏身全体に官能的な匂いがただよっています。権中納言定頼が月見に広沢池を訪れ、池中の観音堂で拝した「皆金色のほとけ」とは、この像であったのだろうと言われています。
《不動明王坐像》
高さ2尺4寸(約70cm)一本彫。今も顔に朱を塗った跡が見られます。両眼を開き、右手に剣、左手に索をとっています。十一面観音立像とともに平安時代の作と伝えられている。

(5)
阿刀神社(あとうじんじゃ)
有栖川に架かる甲塚橋より東へ100m、住宅地の中に残る。現在は小さな社殿一宇と石鳥居を有するにすぎませんが、「延喜式」神名帳にも記されている格式高い神社で、阿刀家の祖神阿刀宿弥石山朝臣を祀っています。祠の後に樹齢八百年ほどの檜の大木があり、歴史を物語っています。
当社は、区内の氏神として今なお尊崇されており、毎月十月には児社と合同で子供神輿が区内を練り歩く行事が催されています。
「草深き野中に今もいにしえのあとを残せる阿刀のみやしろ」(永休)
阿刀氏は、味饒田命を祖として、平安遷都にあたり河内国(現在の大阪府八尾市)の本拠からこの地に移住したと言われています。ちなみに弘法大師の母は阿刀家出身です。阿刀氏は石上氏と同祖で「日本後記」延暦23年(804年)両氏の祖神を祀る大和国石上社の器伎を山城国葛野郡に遷座したと言われています。その社が明治維新まであった小祠で、新宮の社であると伝えられています。新宮町の命名の由来とも言われています。

(6)
安堵橋付近の道標
愛宕、北野、三条の三道を指示しています。この道標は再建とあり文政7年(1824年)の紀年銘がありますが、根元にある火に焼けたらしい石にも文字が見え、これが原初の道標だとおもわれます。持ち去られないように地中深く埋めてあるといわれています。
(7)
安堵橋(あんどばし)
安堵橋(現甲塚橋)は太秦と嵯峨との境になる小川(有栖川)に架かっていた石橋です。阿刀の社も側にあって阿刀橋とも呼ばれ、昔は天龍寺領の東の境にもなっていました。

その昔、愛宕詣の要所だったと伝えられています。比叡山の最澄(のちの伝教大師)が清涼寺近くの火事の折、「清涼寺の釈迦像が焼けては一大事」と使者を駆けつけさせたところ、このあたりで「火事は清涼寺ではない」と聞き、安堵したという伝説を今に伝えています。

(8)
兜塚(かぶとづか)
兜塚は甲塚町の東北に位置し、古墳時代後期(6世紀)に属すといわれています。この古墳の名称は、外形が兜に似ていることからきています。規模は経38m、高さ5.5mの大型円墳で、主体部は、横穴式石室(全長14.1m、玄室5.2m、玄室幅2.9m)で、このあたりの平地部に立地する古墳では丸山古墳に次ぐ規模をもつ古墳です。別名大塚とも呼ばれていました。
奥壁・側壁には大きな石が用いられています。奥壁の上段は1枚の巨石によって構成されていますが、下段はどのような石が用いられているか不明です。側壁は玄室、羨道ともに2層の巨岩からなり、一部では3層になっている箇所もあります。天井石は玄室で3枚、羨道で4枚からなっている。被葬者は、秦氏一族の分家と見られています。早くから盗掘されて副葬品は現存していません。現在は石室奥に祠が設けられ、信仰の対象となっています。
(10)題目石
兜塚の西、下立売通南側にあります。この題目石は日蓮の高弟日像上人が京都七口に建立したその一つと言われ、表面に南無妙法蓮華経の七文字が刻まれています。古墳の石塊を用いていると言われています。

(11)宝樹寺(ほうじゅじ)
有栖川に架かる甲塚橋の橋畔にあります。熊谷山と号する浄土宗西山派の尼寺です。寺伝によれば、建久9年(1198年)、蓮生法師(熊谷直実)の創建で、古くは、粟生の光明寺と並立する大寺であったといわれているが、現在は小庵だけが残っています。現在の堂宇は大正4年に建てられたもので、本堂には蓮生造刻と伝えられる阿弥陀三尊像を安置し、傍らには60cm余りの俗に「寝釈迦」という釈迦涅槃像が在ります。「寝釈迦」は現在日本に三体しかありません。鎌倉時代の作と推定されています。もともとはこの付近にあった阿刀氏の菩提寺教興寺の旧仏とも伝えられています。この寺は昔、通に面して北向きに建てられていて、愛宕詣の人々が寝釈迦さまをお参りしていったと言われています。

(12)油掛地蔵(あぶらかけじぞう)
有栖川に架かる新宮橋から川沿いに下って100mほどの路傍の辻堂内に安置され、高さ1.2m余りの石像阿弥陀仏坐像で鎌倉後期に建立されました。像に向かって右に「延慶三庚戊十二月八日」、左に「願主平重行」と刻まれています。この石仏に油を掛けると祈願成就するという伝説は延宝8年(1680年)、黒川道祐の「嵯峨行程」に「油掛地蔵この辺りにあり、凡そ油を売る人このところを過ぎるときは、必ずこの像にそそいで過ぐという」とあります。少なくとも約300年以上の昔より油を掛けお祈りしたと風習があったことを証しています。信仰の起源については、古代のこの辺りに勢力のあった阿刀氏が禊祓の職掌にあったことから、みそぎの一形式を示すものという説もあります。また、伏見京橋北の油懸山西岸寺の油懸地蔵の伝説に似ることも指摘されています。