
その歴史は古く、帰化人秦氏一族によって開拓が進められ、広沢の池の水によって田畑を灌漑したであろうと言われています。6世紀後半から多くの人々が住み着いたといわれ、兜塚古墳など北嵯峨にかけて広がる大規模な古墳群からも見ることが出来ます。
平安遷都後、嵯峨野は嵯峨の山荘・寺院への途にあって禁野とされ、ここで天皇・皇族の方々が遊猟されたり、若菜を摘み遊楽されたりした。その後、社寺・貴族の荘園となっていました。応仁の乱(1467年)の際には、市街地焼失とともにここ嵯峨の地も焼け野原となり、一時は、「焼野」と称されました。古代・中世において、嵯峨村は、上嵯峨・天龍寺・下嵯峨野3ケ村を含む広範な地域を言い、近世・江戸期には村名となっていました。
享保6年(1795年)池ノ裏村の石高は、334石1斗余で、そのうち大覚寺官領104石3斗1升余、天龍寺領85石7斗1升余、他は烏丸家・阿野家・高倉家・真乗院・理性院・二尊院領となっています。寛政6年(1795年)池ノ裏村之図画によると「北者山之端迄、南者三条通迄、東者堀畠ノ辺迄、西者土居 迄」と範囲を示し惣高合三百九拾弐石七斗弐升五合(内訳は省略)」と記され、年貢の中には竹拾束とも記されていました。
時代は下がり明治5年(1872年)集落は広沢池周辺、池ノ裏村の21軒と下立売通の安堵橋町(現甲塚)あたりの8軒の2集落であったといわれています。当時の村の産物は菜種・綿・野菜・藍・竹などであったといわれています。
明治22年4月、市町村制施行時、下立売通より北の各町は「葛野郡上嵯峨村字○○」、南の各町は「葛野郡天龍寺村字油掛」と「葛野郡下嵯峨村字○○」と称していました。明治36年12月にこれらは合併して「葛野郡嵯峨村」となりました。
尚、明治22年4月から大正12年(1923年)3月までの嵯峨村は、葛野郡の自治体名でした。
住民の交通機関としては、明治30年2月、二条━嵯峨間の京都鉄道が開通したのをはじめ、同32年8月には京都━園部間が開通しました。同40年には鉄道国有化で買収され、山陰本線として引き継がれました。のち同43年3月に嵐山電気軌道(京福電車)の四条大宮━嵐山間が開通、大正15年には北野天神前━帷子ノ辻間が開通しています。
昭和6年(1931年)4月1日嵯峨町が他9村と一緒に右京区として京都市に編入され、現在の学区の町名がうまれました。
その頃の民家は広沢池周辺で約30軒、安堵橋町で約15軒、人口250人ほどだったと言われています。ほとんどが田畑と竹薮で、有栖川も天井川(両側の土地よりも河床の高い川)であり、堤はクヌギの並木、竹薮が続いていたと言われています。嵯峨校までの通学途中は寂しく危険であるため集団で通学していました。
当時の産物は、米・麦・野菜(ウリ類・スイカ・ナス・キュウリ・ホウレンソウ)が主であり、植木畑は副業として2軒だけが営んでいたようです。
昭和10年(1935年)池ノ裏に電話が初めて引かれました。満州事変・日中戦争・太平洋戦争へと戦火が拡大するに伴い、児社で出征兵士を励まし、国鉄嵯峨駅(現JR嵯峨嵐山駅)まで見送ることも数多くなりました。残ったものは食糧の増産に励みました。
太平洋戦争末期、本土決戦が叫ばれ、航空基地建設ということで竹薮、クヌギ林などは軍隊によって伐り払われてしまい、折からの食糧不足からサツマイモ畑にかわり、平安の面影をとどめていた嵯峨野の風情は一変しました。
昭和26年観空寺谷池の堤が決壊し、かってない水害に見舞われました。このことから、天井川であった有栖川の掘り下げ改修が行われ、トロッコが行き交う工事現場は、子ども達にとって格好の遊び場所となりました。
初夏にはホタルが飛びかい、コイ・フナ・ナマズ・ドジョウ・ウナギが沢山みられましたが、改修後清滝川からのトンネルで直接水を引くようになったものの、その頃よりその姿はめっきりと減っていきました。それでも昭和30年頃までは、まだまだ自然の姿は残されていたようで、シカ・イノシシ・キツネ・タヌキが人家近くに出没し、作物の被害を受けたと言います。なかでも兜塚にはコウモリ・キツネが住みつき、あちこちに穴を作り、夕方にもなると親子連れのキツネが威張って歩いていたそうです。
その後、経済の復興・発展とともに都市人口の膨張の波は広沢にもおよび、住宅開発の先駆けとなったのは、御所ノ内町の市営住宅建設でした。昭和35年頃からは新宮町・油掛町・中又町・高塚町と、田畑であった所に新しい住宅の建設が進み、いつしかコウモリ・キツネもいなくなり農薬の普及とともにホタルも姿を消してしまいました。

昭和45年(1970年)大阪万国博の年、新丸太町通りが、花園から常磐野学区を通り嵯峨まで開通しました。この京都市の都市計画が契機となって広沢は、近郊農村の風景から急激に新興住宅地へと変化していきました。当時の嵯峨学区の人口(昭和40年3,276世帯、18,161人)は急増を続け、昭和48年嵯峨小学校東分校が設置され、翌49年広沢小学校として独立し、広沢学区が誕生しました。続いて体育振興会・自治連合会・少年補導委員会支部が、その後、次々と各種団体が結成・独立、諸活動も活発になり学区の大いなる発展につながっていきました。
今では、京都の大動脈の一つとなった新丸太町通りには、マンションや大型店が軒を連ねる中、観光バスが行き通っています。その一方、学区の北部から北嵯峨にかけては古都保存法によって、昔ながらの稲穂の垂れる嵯峨野の景観が守られています。また、最近まで兜塚敷地では、ひとなっこいタヌキの親子やイタチに会えたとの話も聞かれます。ホタルも再び有栖川を飛び交うようになり、歴史と自然が一体になったすばらしい環境の学区となっています。