渡月橋の今昔   戻る

 仁明天皇の承和年間(834〜48年)の平安初期に道昌僧正が現在の渡月橋より二百b程上流の辺に橋を架けた。当時この橋を葛野橋とか法輪寺橋とも云われていた。当時この橋を天竜寺十景の一つに数えられ、橋は朱丹に塗られ東北河畔より嵐山一角の風光を眺望する、すぐれた景勝を展開していたのです。
それから四百数十年后、亀山上皇が月が渡るのをみて渡月橋と名付けられた。この時の亀山御殿は嵐山大堰川もその庭と眺め、橋もお庭先と考えられていただろう。
 天竜寺造営後、夢窓国師が更に大きな橋に架け替えたが、応仁の乱で焼失した。その後景徐という僧が勧進帳を作って橋を架けたが洪水で流失してしまった。以后橋を架け替えたかどうか記録がない。橋のかわりに渡し舟がすでにあったよう伝えられている。後、慶長年間(1596〜1615年)嵯峨の富豪である角倉了以が保津川を開いた.時に現在の処に架け替えられた。
 明治10年頃の渡月橋の変遷をみてみると、渡月橋は山から切り出したままの丸太材でつくられている。丸太の橋脚、竹の欄干で付近は雑木林や竹やぶがひろがり、昔の渡月橋とくらべ考えさせられる。橋は小さく重い荷物をつんだ牛馬は通る事は出来なかった。荷物は渡し舟にたよっていたと書かれている。渡し舟はかなり繁盛していたようである。現在の中の島公園は当時石ころだらけの河原で、近くの農家の人はサツマイモを植えていたと伝えられている。サツマイモ畠はイノシシに荒されたとも云われている。
 明治40年頃になって現在の橋や中の島公園の原形がつくられた。桜の木や松の木を埴えたのも此頃である。小学校の運く動会が開かれた記録がある。そして中の島公園は後にカフェ一の店が開店し、歓楽地として脚光をあびるようになる。夏には赤もうせんを引き、タ涼みしながらアユなどを食べたと云われている。芝居小屋や映画会なども行なわれたと記録にある。

現在の渡月橋付近