嵐 山 の れ き し   戻る

 嵐山地域は川向いの嵯峨野にくらべ静かに発展していった地域です。松尾山、嵐山の山麓は桂川右岸沿
にまでひろがっていたために、上地は狭く荒れていた。秦氏の用水路の建設と土地の開拓により、農地とし
て開けていったのです。嵐山地域は昔から眺めてその価値があると言われている。 「山城名跡巡行志」によ
れば、罧原の堤から西を眺めた文に「北は愛宕山、小倉山、亀山、嵐山、松尾山、その山麓に天竜寺、法輪
寺、松尾、月読の社あり。そのほか諸村の民家、前に大井川を横たえ、春は花、秋は紅葉、月の夜、雪の朝、
風景尤勝たり」と書かれているのです。諸村の民家をむすぶ街道は嵐山から御陵まで山添に帯状に南北に
細い道が一本あるだけでした。(今の旧街道〉村落は殆んどは西部の山地にそうように集っていたのです。
 この街道は西側は山に添い東側は急な傾面で農地に至っているのです。これらの民家は法輪寺下の地域
と松尾神社付近に集っていたのです。 
 角倉氏が舟運を開くようになり法輪寺下の地域の民家はその殆んどが旅館(はたご)を営んでいました。
そのほか法輪寺の庭番や寺子としてこの地に居をかまえたとも言われています。舟運を関くことは嵐山地域
と丹波地方との交通の便がひらけたのです。嵐山に舟つき場が出来たのもその必要性があったからです。
舟つき場は中ノ島の南側の水路にあったといわれています。嵐山の舟つき場は、梅津や桂に開港した川港
程大きなものではなかったのです。梅津港は丹波からの材木の集散地として栄えた。桂港は京や大阪から
丹波への物資の集散地として利用された。桂に渡し舟があったように、嵐山と嵯峨野を連絡路として渡し
舟が嵐山にもあったのです。このように嵐山地域は丹波、嵐山、嵐山から嵯峨野と連絡路として重要な地
域でもあったのです。更に物の流通として丹波亀岡方面から荷は嵐山に下されたのです。桂港には腰かけ
茶屋がたち川港のにぎわいをみせていたように、嵐山の舟つき場(嵐山川港)にも一般旅館にまじり高級旅
館もあったようです。高級旅館には各部屋に「三味線」がそなえつけてあったとも言われています。嵐山は
川に川魚、山に茸をはじめ山菜が豊富であったのです。更に街道を南に下っていくと、嵐山と松尾の中程に
「衣手の森」があったとも言われています。この衣手の森は春は花、秋は紅葉が乱舞していたとも言われて
いますがその真はさだかでないのです。一方街道は松尾神杜に至るのですが、松尾神社附近には農家の
集落にまじり地侍がこの辺に居をかまえていたのです。松尾祭の御輿はこの地待がかつぎ桂川を渡御され
た図が古書にみられます。松尾神社と農民のつながりはあつく、御田植祭や八朔祭にみられます。
 子供の頃には露店を楽しんだと伝えられています。
 桂川がいつまでも清流を満し、松尾山には豊かなみどりをと数限りなくある文化遺産を大切にし、住みよい
明るい地域に発展させることが現在におかれた私達の責務と思います。

渡月橋の今昔